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ムーン・リバー


 深夜、ムクッと起き上がり木造アパートの外階段をバタバタと駆け下り、階下の雀荘のドアをバタンと開けた。客たちが一斉に振り向く。
「あんたら、いつまでジャラジャラやっとんねん!うるそうて寝られへんやんか!山岸のおっさん!部屋の契約時、あんた何て言うたかまさか忘れてへんやろな。12時閉店やから心配ない言うたやんか!そやのに今何時やと思うてんねん!1時半やで!いい加減にせいや!」
客は、パジャマの上に薄いカーディガンをはおり、素足に突っかけ履きの若い加奈子の啖呵を口をあんぐりと開けて聞いていた。

 名指しされた家主でもある店主の山岸は、一瞬遅れて腰を曲げながら、
「加奈子はん、すんません。今、終いますよって、勘忍でっせ。」
と、なだめ顔でわびる。加奈子はフンッとばかりに、客たちを一瞥して、またバタンとドアを閉めて、外階段をバタバタと上がって行った。
 翌日、山岸は菓子折り持参で、謝りにきた。その夜以降、ちょくちょく珍しいものを加奈子に届けるのであった。

 加奈子はクラブのホステスである。勤めている”クラブ志乃”はこの辺一帯で名士と言われる人たちが客層の老舗であった。
加奈子はここで、19の歳からホステスをしていてすでに2年が経つ。サバサバした性格が気に入られ、人気があった。
 加奈子の父は、腕の良い鉄筋工でキップが良く、女たちに取り囲まれ遊び人であった。そんな父親に母親は愛想をつかせたのか、どういういきさつがあったのか、加奈子が物心ついた頃には両親は離婚しており、父親との二人暮らしで、母親の顔を知らずに育った。

 ”クラブ志乃”には、古いピアノが一台置いてある。
ある夜、酔った客が『ムーン・リバー』を弾き始めた。バーテンダーの吉田は、「加奈子はん、歌ってごらんよ。」と加奈子の背を押す。
加奈子の父は、酔うといつも『ムーン・リバー』を原語で歌う、唯一の十八番なのだ。いつの間にか加奈子も憶え、かなりうまく歌いこなせていた。そのことを吉田は知っていたのだ。
店で歌ったことなどなかったが、酔いにまかせてピアノの傍に立ち、加奈子は歌い始めた。

 ”Moon river,wider than a mile (一マイル以上ある広大なムーンリバー)”と、加奈子の歌声が店内に響く。
次第に客の話声はやみ、加奈子が歌い終わると一斉に拍手が起こり、アンコールの声がかかった。加奈子が店で歌を披露したのはこの夜が最初で最後であった。

「加奈ちゃん、ちょっと」ある晩、ママの志乃が店の奥に呼ぶ。
「あんた、結婚する気ない?」と聞く。
「実はな、あんたの歌聴いてえろう気にいりはったんやて。知ってるやろ、加納社長はん。あの晩、来てはったんやがな。」 
「ママ、あの人もう60過ぎやろ?ひどいわ、ママ、いややぁ!」 
「わかってるがな、そやさかいうちもあんじょう断ったんやけど、あんたのこと見染めはってその後も何度も頼まはんねん。いっぺんでええから食事でもって言わはんねん。加納はんの奥さんは5年ほど前に亡うなりはってん。ずーっとお一人やで。あんたがこの町に来る前からへんな噂もあらへんよ。いっぺんでええから、うちの顔たててえな。」志乃は、おどけた仕草で手を合わせて言う。
加奈子は「いっぺんやでぇ。」としぶしぶ承諾をしてしまった。

 その加納は恰幅がよく、まさに紳士であった。
一回だけと思っていた加奈子であったが、加納の博識な話しぶりや人柄にふれ、それ以来、時々食事をしたり、家を訪ねるまでになっていた。
しかし、男女の情が湧いたわけではなかった。
ただ加奈子は、父親にはない加納の知性に魅かれていた。
子供のいない加納も加奈子を可愛がり、いつしかふたりの間には、親子のような情愛が生まれていた。

 ある日加納は、死んだ妻の話をしはじめた。
愛し合い幸せな結婚生活だったこと、そして妻が愛した歌が『ムーン・リバー』であったことなどを加奈子に聞かせた。
加奈子が歌う容姿を見て、妻が生き還ったように感じたことなどを話す。
うっすらと涙を浮かべて話す加納を見て、『私には母親がいなかったけど、父親が二人できた』と、加奈子は思う。

 その加納の妻が、加奈子の実の母親だとわかるのは、それから数年経ってからのことであった。


ーENDー

by serendipity_blue | 2017-09-09 07:12 | 作品

ここは、自作品の保管書庫  


by Keiko